「……」
山下が直希の顔をまっすぐに見つめる。
直希もまた、視線を逸らすことなく、山下の目をみつめた。* * *
「……うふふふっ」
やがて山下は小さく笑い、静かに目を閉じた。
「……直希ちゃんって本当、お芝居がお上手ね」
「山下さん……」
「映画に出られるんじゃないかしら。何なら今度、そうブログに書いてみようかしら。私の知り合いに、ハリウッドでも通用する男前さんがいるって」
山下がうつむき、そう言って笑った。
――肩が震える。
「……私ね、何だかよく分からなくなってきちゃったの……私がどうしてここにいるのか、どうして祐太郎さんはこの部屋にいないのか……祐太郎さんはどこにいるのか……
でも私が望めば、祐太郎さんはいつもの声で私を呼んでくれる。だからね……うふふふっ、何だか混乱しちゃって……」「山下さん、すいません……俺が山下さんのこと、混乱させてしまいました」
「いいのよ。直希ちゃんは私のことを思って、祐太郎さんになってくれた。まるで本物の祐太郎さんのようにね。だから言ったのよ。直希ちゃん、役者さんになれるって」
「ははっ」
「うふふふっ」
そう笑い、山下が顔を上げた。頬に伝う涙と真剣な眼差しが、山下の中にある覚悟を直希に伝えていた。
「直希ちゃん。祐太郎さんはどこにいるのかしら。出来れば今すぐ会いたいんだけど、どうやら会えない理由があるみたいだから。
だから直希ちゃん、これは私からのお願い。役者さんとしてでなく、私の大好きな、あおい荘の直希ちゃんとして教えてほしいの。兼太が分からないままに、食堂中が穏やかな笑いに包まれていた。 先程のやり取りから、入居者たちもそれとなく、兼太の気持ちに気付いているようだった。しかし、その兼太に向かい節子の放った一撃が、「それを言ってしまったら駄目でしょう」とばかりに入居者たちの笑いを誘った。 入居者たちが、顔を真っ赤にして動揺する兼太に温かい視線を送る。「そうだ兼太くん。節子さんはね、国語の先生だったんだよ」 少しかわいそうになってきた直希が、そう言って兼太に助け舟を出した。「そうなんですか?」「うん。特に節子さん、純文学には目がなくてね。兼太くんは好きな本とかあるのかな」「そうですね、一応は……子供の頃から母ちゃんに言われて、結構読んでましたので」「どんな本さね」「本」というワードに反応し、節子が兼太に問いかける。「そう、ですね……俺はどっちかって言ったら、昔の本より今の本の方が好きです。ファンタジーとかSFとか」「昔のは面白くなかったかね」「いえ、面白い面白くないとかじゃなくて……なんて言ったらいいんでしょう、やっぱり古典だなって言うか、堅苦しいって言うか。話の展開もあまりなくて、ちょっと退屈って言うか」「……」 兼太の言葉に、節子は目をつむって黙って聞いている。「この前も、その……芥川龍之介の『トロッコ』を国語の時間に読んだんですけど、何て言うか、別に? それで? としか思えなくて……」「やっぱり童〈わらし〉さね、あんたは」 そう言って、節子が小さく息を吐く。「子供ってのは、とにかく話の展開だけを追うもんさね。話が面白いかどうか、興味はそこにしかないもんさね。だから展開が少ないと、良さを感じる前に拒絶してしまう。 今あんたが言った『トロッコ』、私もよく教材として教えたもんさ。でもほとんどの生徒は、退屈そ
「しっかし……中学生はないわよね」 夕食の準備をする菜乃花に向かい、つぐみが微笑む。「菜乃花は可愛いし、若く見えても仕方ないとは思うけど」「つぐみさん。それって私が幼いってことですか」「いえいえ、そういう意味じゃないからね」「本当、失礼な人ですよ、兼太くんってば」「あははっ……」 怒ってる顔も可愛いな、そう思いながらつぐみが苦笑した。「でもね、菜乃花。今はそう思うかもしれないけど、もうちょっとしたら、今度は逆のことを思うようになるのよ」「どういうことですか?」「実際の年齢より、若く見られたいって思うようになるってこと」「そういうものでしょうか」「まあ、私の場合は昔から、実際より年上に見られてたからね。特にそう思うんだろうけど」「つぐみさんは、その……しっかりされてるから」「……ごめん菜乃花。それって何のフォローにもなってないから」「ええっ? ご、ごめんなさい」「別にいいんだけどね、もう慣れちゃったし。でも……それにしても中学生はないわ、やっぱり」「全く……話をしてて、ずっと違和感があったんですよ。大体兼太くん、私より年下なんですよ? せめて同級生ぐらいだったら、私もこんなに怒らなかったのに」「あはははっ……でもほら、もうすぐ兼太くんも来るんだから、いつまでもそんな顔しないの」「……分かってますよ、そんなの……」「二人共お疲れ様。いい匂いだね」 節子の入浴を済ませた直希が、食堂に現れた。「あ……直希さん、お疲れ様です」「直希、お疲れ。節子さんも、さっぱりしてよかったですね」 相変わら
「やってしまった……初手でいきなり、やってしまった……」 生田の部屋。 アプリに-5点を入れ、兼太が頭を抱えていた。 そんな孫の様子に苦笑しながら、生田が声をかける。「確かに菜乃花くんは、少し幼く見えるのかもしれないが……それにしても中学生は酷すぎたな、兼太」「じいちゃん、追い打ちかけないでくれるかな」「ははっ。だが、いきなりお前が来たものだからな、かなり驚いたぞ。今日は学校、休みだったのか」「ああ、うん。今試験休みだから」「そうか……試験はどうだったんだ。手応え、あったのか」「あったと思う……さっきの菜乃花ちゃんとのやり取りに比べれば、それはもう遥かに」「そ、そうなのか……それで、せっかくの休みだと言うのに、どうしてあおい荘に……あ、いや……聞くまでもないか」「いやいやじいちゃん、誤解してるから。じいちゃんのところに来たかったのは本当だから」「そうなのか?」「うん……そうだ、さっきのがあったからすっかり忘れてたよ。じいちゃん、この前はその……母ちゃんが変なこと言って、本当にごめん」「なんだお前、まだ気にしてたのか。あの時にも言ったはずだぞ。お前が謝ることなんてないんだ」「でも、その……俺のせいでもあるんだよ」「どういうことだ?」「俺が母ちゃんに言ったんだよ。いつまでじいちゃんを放っておくつもりなんだって」「……」「家族は大切だって、母ちゃんいつも俺に言ってた。実際母ちゃん、身内に対しての愛情はすごく持ってる。でも……それなのに母ちゃん、じいちゃんに対してだけはそうじゃなかった。ばあち
「それでその、他の方たちは」「一人は生田さんの見守りで、お風呂場にいます。覚えてませんか、あおいさんって言うんですけど」「あおいさん……ああ、覚えてます。風見さん、ですよね。あの時じいちゃんに、自分のことも名前で呼んでほしいって言ってた、ちょっと面白い話し方の」「面白いって、ふふっ……そうですね。あおいさんの口調、ちょっと面白いですよね」「ああでも、馬鹿にしてる訳じゃないんです。何て言うか、あのお姉さんにぴったりの話し方だなって思って」「そうですね。あおいさんって言ったらあの話し方、ですよね。ふふっ……あと、直希さんとつぐみさんは、ご存知でしたよね」「はい。お二人とは、初めて来た時に挨拶させてもらってます」「二人は入居者さんの付き添いで、病院に行ってるんです」「病院って、何かあったのですか」「あ、いえ、そういう訳ではなくて……新しく入ってこられた入居者さんなんですけど、最近調子がよくなってきましたので、確認の意味で検査に」「そうだったんですね、よかった」「それでその、兼太さんはこんな時期にどうして? 今日は金曜ですし、学校もまだ」「うちの学校、試験休みなんです」「え? まだ11月なのに」「はい。うちは進学校なので、普通の学校とはスケジュールが違ってて。今月いっぱいが休みで、12月からはまた授業が始まるんです」「私のところは二週間先です。それが終わったら、試験休みと合わせてそのまま冬休みで」「普通はそうですよね」「試験休みの後で、まだ一か月授業なんて。大変ですね」「いえ、俺にとってはそれが普通なので。それにどうせ家にいても勉強してますし、そんなに変わらなくて」「兼太さんは、その……進学先は、もう」「はい。医者になることを目指してますので、国立の医学部に」「お医者さんで
あおい荘の門をくぐった少年は、花壇の前で足を止めた。 穏やかな笑みを浮かべ、今日の点数2点追加だ、そう思いスマホのアプリに加点する。「こんにちは! 失礼します!」 玄関に立った彼。 生田兼嗣の孫、兼太は元気いっぱいに声を上げた。 * * *「おじいちゃんの家に泊まる?」 夕食の済んだ生田家。兼太の言葉に、父の兼吾が意外な顔をした。「うん。俺、母ちゃんとの約束守って、期末試験も頑張った。手応えもあったし、これなら多分、学年10位以内は大丈夫だと思う」「そうか。お前、頑張ってたからな……しかしなるほど、そういうことだったのか」「あれから俺、じいちゃんの家に行きたくて、何度も母ちゃんに頼んでたんだ。でも母ちゃん、受験生がそんなことでどうするんだって、聞いてもくれなかった。でも俺、どうしてもじいちゃんに会いたいんだ。だから父ちゃん、駄目かな」「いや……いいんじゃないか」「よしっ!」 兼太が拳を握り、嬉しそうに声を上げる。「ちょっとあなた、勝手に話を進めないでもらえます? 兼太、私は反対ですよ。試験が終わったぐらいで浮かれてどうするの。受験まで気を抜いてる暇なんてないんですからね。そんな覚悟で受かるほど、あなたの志望校は楽じゃないのよ」「俺のって言うか、母ちゃんの志望校だろ」「まあまあ、兼太も仁美も落ち着きなさい。兼太、母さんの言うこと、分かってくれるよな。母さんはお前の為、あえて嫌われ役になってくれてるんだ」「……分かってるよ。俺だって子供じゃないんだから」「仁美、お前もだぞ。考えてもみなさい。兼太がお前の言葉をないがしろにしてることなんて、今まであったか? こいつはこいつなりに考えて、お前の言いつけを守ってる。だから……たまにはこいつの言うことも、聞いてやってくれないか」「でも……
クリスマスの飾り付けの準備をしながら、つぐみは先日のミーティングを思い出していた。 節子や山下の一件を通じて、つぐみはあおいと菜乃花の成長を強く感じていた。二人共、何度も何度も心が折れそうになったことだろう。彼女たちを励ましていた自分でさえ、袋小路に迷い込んだような気になり、挫けそうになった。だが彼女たちは、そんな自分の言葉に奮起し、立ち上がってきた。 介護に正解はない。 なぜなのか。対象となる相手によって、対応が違うからだ。 介護職の対象は、あくまでも人間。機械が相手なら、マニュアルを作りそれに沿って作業すればいい。だが人となると、そうはいかない。 この人が成功したからといって、別の人にも通用するとは限らない。そういう意味では自分もまた、あおいたちと同じく、試行錯誤を繰り返すしかなかったのだ。違う点があるとすれば、彼女たちよりも経験が長く、それなりに対応策を心得ているということぐらいだった。 それでも自分も人間、心が折れそうになる時もある。 しかしそういう時、つぐみの前には必ず直希がいた。 直希も自分と同じ、無力な人間だ。だが直希はそんな中でも、いつも希望を捨てず、自分の理想に向かって走り続けている。 手が届かないところにまで、直希が行ってしまわないように。そう思い、つぐみは歯を食いしばって直希の後を追い続けた。 ――直希がいたからこそ、今の自分もあるんだ。 そう思った時、再びつぐみの脳裏に、あおいを愛おしそうに見つめ、抱きしめている直希の姿が蘇った。「はぁ……」 大きなため息をつき、つぐみが手を止めた。 あおいは本当に強くなった。元々楽天的で明るく、物事を諦めない芯の強い子だと思っていた。 しかし彼女は、絶望的な状況からも逃げることなく、そして節子の信頼を勝ち取った。 今回の件は、あおいの尽力がなければ、とてもじゃないが解決出来たとは思えなかった。 その原動力は何なのか。 そこまで考えて、つぐみは自虐的な笑みを浮かべた。 決まってい